読者の感想と考察

1986年12月9日の内村鑑三の霊言は、霊人としての身元証明という意味で、無教会派の思想的な背景について述べられた後、個人的なことについても語られていました。

霊言では、不敬事件の話に入る直前に、無教会派というのは教会のない人びとの集まりのことで、なぜ教会がないかというと「教会からも破門された人間だった」と述べられています。それがどこの教会のことを指しているのか明確ではないのですが、内村鑑三は1882年に札幌独立キリスト教会を創立後、1883年に第三回全国基督教信徒大親睦会に代表者として参加してもいるので、不敬事件以前には教会はあったわけですが、安中教会で知り合って最初の妻となったタケと離婚後にアメリカへ留学。1888年に帰国後、新潟で教員をしてエレミヤ書やルターの講義をしていたものの、日本の宗教も学ばせようと思ったのか日蓮宗僧侶の講演会を企画したことで宣教師の反対があったりして結果的に辞職となり(北越学館事件)、その後、東京で日本基督教会に属する一番町教会(富士見町教会の前身)で説教したりもしていたらしいですが、1891年の不敬事件で免職になった際には、友人たちが依願免職という形をとったらしく、事実としては辞職したということになりますが、新聞で免職になったのを知ったのが事実であるなら、罷免された本人としては懲戒免職とされたぐらいの衝撃だったということにはなるでしょう。また、社会問題化したから教会が破門したという事実はなかっただろうと思いますが、校長の説得による敬礼のやり直しに友人が代理人として応じたことで教会側からも批判されたというのも破門されたのと同じぐらいの衝撃があったので、「無教会」という考えを持つようになったのではないかと思います。不敬事件のあった1891年に札幌独立キリスト教会からは転会していて、転会ということは、転会元の教会は除籍となるのでカトリック教会では破門に相当しますし、転会先の教会の記録が見つからないので、事実上、教会が無い状態だったということにもなります。ただし、札幌独立キリスト教会には1900年に復帰しているので、実際に教会が無かったのは 10年間ぐらいのようです。

不敬事件から20年後には、1911年11月末に内村鑑三が実の子のように愛していた女中の高橋ツサ子が郷里でひっそり早逝し、実子のルツ子も1912年1月に亡くなっているので、霊言の「そして、あいついで、私の子供たちも亡くなった」という表現については合っていると思います。ただ、話の順序として、2番目の妻・嘉壽子(Kaz)が亡くなってからすぐ後のことのように読めるのは確かで、もしかしたら、4番目の妻・静子と結婚する前に結婚したという3番目の妻・築山モトと関係があるのかもしれませんが、その女性に子供がいたかどうかまでは分かりませんでした。おそらくは、前妻が亡くなったときの感情と子供たちが亡くなったときの感情とが重なってしまって、話が混線したのではないかと思いますが、幸福の科学の会内経典になっている『大川隆法霊言全集』に収録されているほうでは削除してあるらしいので、このあたりの話題にはあまり触れないのがいいのだろうと思います。

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